ジャズボーカル パパの世界 【ライブ情報など】


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Author:papa-otsuru
八丈島在住のミュージシャン、パパ大津留はアングラーとしても有名です。
このブログでは、ジャズボーカル『パパ大津留』として、日々の暮らしやライブ情報、そして少しばかりシュールな詩の世界をご紹介します。



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7/29 代官山「シンプルボイス」のライブ
7月29日 代官山『シンプルボイス』でのパパのライブ。


おかげさまで、予約席30席が、あと残り5席ほどになってしまいました。

有難うございます。


でも、立見席ですが十分にスペースがあります。

まあ、気楽にジャズバーの雰囲気で立ち飲みも悪くはないでしょうか。

僕のライブは、スローバラード中心で大人の雰囲気で、
おやじギャグふんだん?のフレンドリーなライブです。

昭和の音楽、釣り、恋物語、そして業界の裏話など、
楽しいお話もあります。

判りやすい日本語の曲もあるのでお楽しみに(演歌はないですよ~)


Live


Facebook や Twitter からと、直接メールで予約されてた方は、席がリザーブされています。

明日いっぱいは受け付けますが、30席は早い者勝ちですので宜しく(^ ^)。


6:30開場  7:30開演


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テーマ:JAZZ VOCAL - ジャンル:音楽


Old men`s Jazz&Blues Mind
私は元々、シンガーではなかった。

まだ音大生だったころ、最初に仕事として参加したのが、
「ジョージ川口とオールスターズ」
と言うビッグバンドだった。

当時、ジョージ川口さんと言えば、日本で最も有名なドラマーである。

何しろ、「ビッグフォー」時代、サックスが松本英彦、
ベースが小野満、ピアノが中村八大と云った怱々たるメンバーで、
あの、日本劇場を(今でいえば武道館)、並ぶファンでなん巻きにもなったと言う、
そんな伝説の大スターがリーダーである。

バンドのオーディションは、あの「シング、シング、シング」。

リズミックなトロンボーンのセクションから始まる。

音程とリズムを合わすのが難しい曲だが、何とかその後のソロワークもこなした。

大学受験以来の試験であるから緊張したが、何とか合格、メンバーの端に加えて貰った。


仕事場は、クラブやダンスホール、それに米軍のキャンプでのバンドショーだ。

しかし、津軽の田舎から出てきたばかりの若造君には、少々刺激の強い仕事場である。


クラブ等ではホステスたちの淫靡な嬌声、そしてショーではヌードダンサーの刺激的な舞い。

帰宅が深夜になるので、当然に翌日の授業に遅れがちになる。


ホステス達に深夜の食事に誘われ、生意気にも酒も強くなる。

酩酊しての朝帰りも度々になると、そりゃ学校にも足が遠くなると云うものだ。


その頃から、ジャズにのめりこむようになってくる。

それは、当時でも一流のバンドであるから、それなりに切磋琢磨。

先輩ミュージシャン(当時はバンドマンと呼んだ)に怒られながら

多くのことを学んだ(それは良いことも悪いことも)。


しかし、ジョージさんのバンドは1年半ほどで解散になる。

私以外は、それなりに名前の通ったプレーヤーであるから、
当然に給料も高い。

イベントなどのギャラの高い仕事が減り、
クラブやダンスホールだけでは、賄いきれなくなったと云う事だ。


しかし、その後も学校には足が遠くなった私だから、
トラと言われるエキストラの仕事で食いつなぐようになる。

ようやくジャズという音楽に情熱を持ち始めた頃である。


当時、東京駅に南口に楽器を持って立っていると、
其処に、地方巡業や場末のキャバレーなどで空きになった
バンドのマネージャーやバンドリーダーが現れる。

まあ、日雇いのバンドマン探しみたいなものだ。

数か月は、そこに日参して職探しをした。

そこで色んなバンドマンと知り合い、酒、女、薬、
堕落の入り口を彷徨った時代だろうか。


その頃、大学の先輩から、
あるトロンボーン奏者を紹介してもらう。

川辺公一という当時は日本のジャズシーンでは
NO1のトロンボーン奏者で、
さらに、その川辺さんの紹介から
「スマイリー小原とスカイライナーズ」に
請われて、そのバンドに参加することになった。

スマイリーバンドは当時、日本のジャズのビッグバンドとしては
最も売れていたバンドだろうか。

特にリーダーのスマイリー小原さんの強烈な個性は、
当時のテレビ番組、「シャボン玉ホリディー」や「ヒットパレード」で、
踊る指揮者として一世を風靡した。

そして、このバンドで、ジャズバンドの、
トロンボーン奏者、編曲家としてデビューすることになる。

若干20歳になったばかりだろうか、この頃はまだ自覚がなかったが、
そんなスマイリーさんに傾倒し、ジャズの世界でのインターテーメント、
そしてジャズボーカルへの思いが、今の私の原点になっているかも知れない。

http://www.youtube.com/watch?v=spNUbRdavnA









テーマ:JAZZ VOCAL - ジャンル:音楽


母の思い出と弘前。
母が100歳と3か月で逝った。

病気で苦しむこともなく大往生だろうか。

姉の看取る山口で逝ったこともあり、親戚、兄弟が相談のうえ、
6/30に父が眠る、故郷の弘前で納骨となった。

母、そして故郷の弘前に思う事は子供から高校までの、
ものの知らない、青っ白い頃だろうか。

両親が教師だった私は、小学生の頃は常に学校に隣接した教員住宅に住んでいた。

教員住宅と言うと何か今風の2DKとか3DKと思うかもしれないが、
戦後のモノのなかった時代である。

それは、風呂などのない粗末なものだったろうか。

それでも、冬などは部落中で週に1回ほど馬ソリに乗り、
近くの黒石市や弘前に出かける。

それは、お風呂に入り小さなデパートで買い物(大したモノではない)、
それはモノのない時代ではあるが、それでも、心は豊かな暮らしだった気がする。


休日、生徒のいない学校の教室では、私たち兄弟の遊び場になっていて、
体操マットで遊んだり、紙飛行機を飛ばしたり、音楽室では、
母がオルガンを弾き、その伴奏で、大きな声で歌を謳う。そんな思い出だ。


やんちゃだった高校時代だが、母の影響からか音楽に目覚め、
そのまま音楽大学を目指すようになる。

しかし、上京後はニキビ顔だが色気づいた1人暮らし。

直ぐに、魅惑のキャバレーやダンスホールのでバンドのアルバイトをし、
まあ、よくあるアンダーグランドな世界に沈み込む。

それでも、まあそれなりの音楽教育を受け、多少の基礎があったからか、
ジャズの有名ビッグバンドにも在籍することで、
編曲や番組などのコンポーザー的な仕事をするようになる。

何時だったか、「3時で会いましょう」と言う番組で、
雪村いずみさんがナットキングコールの「スターダスト」を歌うことになる。

この番組で月曜の音楽担当は私であり、これは私のオーケストラアレンジでしたものだ。

このクレジット見た母が、直ぐに電話をよこし、
この曲の作曲家がポーギーカーマイケルであること、
そして、この曲が自分にとって思い出深いことを、嬉しそうに話していた。



母の納骨の朝、市内を散歩して回る。

弘前駅前のホテルから、中学、高校の頃に闊歩した懐かしい繁華街。

島暮らしから見ると、様変わりの都会だが、でも
この街にはあまり変わらない風情が見える。

驚いたことに、恩師の実家がやっている、古めかしい万年筆店。

そして、高校生の頃、毎日のように屯し音楽を聴きあさった喫茶店「ひまわり」。

40年前の思い出をよみがえらせるには十分の標だろうか。


いま、島に戻って、この7月29日のライブのレパートリーを選び、
屋根裏から昔のレコードを探し出している。

クラシック音楽偏重から、徐々にジャズに目覚めた、あの頃の音楽だろうか。

「スターダスト」

多分、この曲がオープニングになるだろう。

亡き母が口ずさんでいたのを思い出す。

star dust




テーマ:音楽 - ジャンル:音楽



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